横浜磯子教会


タイトル:「終末への希望」 聖書箇所:「旧約聖書:ネヘミヤ記8章9-12節、新約聖書:マタイによる福音書27章3-5節、ヨハネの黙示録21章」

主よ、我が岩よ、我が贖い主よ、我が口の言葉、我が心の思いを、御心に叶わしめ給え アーメン
東京神学大学 ヨシュア内田幸四郎

 洗礼を受けたキリスト者は、この世の終わり、つまり終末に、神の国へと招かれます。世間一般では、終末はこの世の破滅や滅亡というマイナスなイメージで理解されることが多いかと思います。しかし、聖書が語る終末とは、マイナスなイメージではありません。むしろ、そこにこそ希望があるのです。なぜなら、終末のとき、私たちに与えられるのは、神の国であるからです。神の国では、私たちがキリストによって、もはや自分の罪に苦しむことがなく、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神と隣人とを愛し、仕えるようになるのです。私たちの歩みは、すべてここへと導かれているのです。

 この神の国の様子を、今朝与えらました「ヨハネの黙示録」は、次のように語ります。3,4節「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」ヨハネの黙示録は、神の国には無いものを語っています。それは4節にありました通り、涙、死、悲しみ、嘆き、労苦です。これらのことがないのが、神の国であると、黙示録は語るのです。神の国では、私たちはもう涙することなく、死も悲しみも嘆きも労苦もないのです。
 また聖書の他の箇所を見てみますと、使徒パウロは、ローマの信徒への手紙14章17節で「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と語ります。ここでパウロは「神の国」=「義と平和と喜び」であると語っているわけです。
 また、「神の国」とは、元のギリシャ語を直訳すれば、「神の支配」となります。つまり、神のみが支配者であり、神以外のものは支配者でないのが「神の国」なのです。「神の国」では、罪も悪も死も、神以外の何ものも支配者ではないのです。
ですから「神の国」とは、神のみが支配者であり、悲しみも嘆きも労苦もなく、義と平和と喜びであるのです。これが、この世の終わり、つまり終末に天から下って来るのです。洗礼を受けたキリスト者は全て、終末のとき、ここへと招かれるのです。
 ある牧師が以前、このようなことを言われておられました。その先生がまだ神学生であられたとき、奥様の地元に行かれ、奥様の出身された幼稚園を訪問されたそうです。その幼稚園はカトリックであったので、そこには神父さんがおられたそうです。その神父さんは、その牧師が献身という道に進んだことをすごく喜んでくださったそうです。そして、ご高齢であられたその神父さんは、ご自身の死期を悟っておられたようで、別れ際、その牧師にこう言われたそうです。「じゃあまた神の国で会いましょう。」この信仰の言葉が言い表しているように、洗礼を受けたキリスト者は全て、終末のとき、ここへと招かれ、再会を果たすのです。

 しかし、マタイによる福音書が語る「裏切り者」ユダは、この神の国へと招かれるのでしょうか?果たして、ユダの罪は赦され、悲しみも嘆きも労苦もなく、義と平和と喜び「神の国」に相応しい者であるのでしょうか? ユダは、12使徒の1人でありながら、御子イエス・キリストを裏切った人物です。しかも、十戒のひとつ「殺してはならない」、これには他人だけでなく自分をも含みますから、ユダは十戒を破ったことになります。果たして、ユダの罪は赦され、神の国に相応しい者で、そこへと招かれるのでしょうか?
 結論を先取りしてしまいますが、「ユダは神の国に相応しい者で、神の国へと招かれるのか?」という問いへの答えは、私たちには分かりません。答えようのない問いであるのです。なぜなら、ユダの罪を赦し、ユダを神の国に相応しい者へと創り変え、そこへと招くのは、主なる神であるからです。決して私たちではないのです。それを定められるのは、私たちではなく、主なる神であるのです。罪を裁く裁き主も、またその罪を赦す贖い主も、私ではなく、主なる神であられるのです。

 結論を先に言ってしまいましたが、「ユダは神の国へと招かれるのか?」、つまり「ユダの罪は赦され、悲しみも嘆きも労苦もなく、義と平和と喜び「神の国」に相応しい者であるのか?」、この問いを考えるには、そもそもユダの「罪」とは一体何なのか、ということをはっきりさせなくてはなりません。
 マタイによる福音書の3節にはこうありました。「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し」、ユダは「後悔」をしていました。その後悔の原因は、主イエスをユダヤの祭司長たちに引き渡したことでした。この「後悔」という言葉ですが、ある牧師は「自責の念にとらわれていた」と訳した方が良いのではないか、と言います。つまり、ユダは、自分に対して怒り、呆れ、自己嫌悪になっていたのです。そうすると、後悔したユダが自殺の道を選んだのも、納得がいきます。なぜなら、「後悔した」、あるいは「自責の念にとらわれていた」ユダは、全てを自分で片付けようとした、自分で物事にケリをつけ、決着させようとしていたからです。彼は自分の犯した「主イエスを引き渡す」という行為が罪であったことを認め、その責任を取ろうとしたのです。つまり、自分で自分を裁こうとしたのです。しかし、これがユダの罪の本質でした。ユダの罪の本質とは、自分の裁き主が自分自身であったこと、人間の裁き主が人間であったことなのです。「自分のしたことに、自分で責任を取った」と言えば、聞こえは良いかもしれません。しかし、ユダが犯した行為というのは、主イエスを十字架へと導くきっかけの出来事になりました。つまり、彼の行為は神に対するものであったのです。そのような罪の裁き主が人間であるはずがありません。当然、罪の裁き主は主なる神です。しかし、ユダは、自分自身が「神」となって、裁き主となって、自分自身を裁いたのです。主なる神が為してくださるはずのことを、ユダがしてしまった。要はユダが「神」になってしまったのです。
 すると当然、そこには贖い、つまり罪の赦しなどありません。私たちに罪の赦しを得させてくださるのは、主なる神です。この方が罪人である私たちに罪の赦しを得させてくださり、神の国に相応しい者へと創り変えてくださり、神の国へと招いてくださるのです。この方以外にはあり得ないのです。
 いやそもそも、御子イエス・キリストによる十字架の死と復活とは、贖いの御業、私たちに罪の赦しを得させるためにあったはずです。これは先程、共に告白しました「日本基督教団信仰告白」において、「御子は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖いとなりたまえり。」とあった通りです。
 しかし、自分自身を裁き主としてしまったユダには、この贖いがありません。自分で自分を裁いたユダに残されていた罪の償いは自殺しかなかったのです。自分のしたことに、自分で責任を取る唯一の方法は、自殺だけであったのです。自分の物語に終止符を打ち、罪の現実から逃れることであったのです。

 しかし、主イエスが本当に求めておられたのは、罪の償いであったのでしょうか?自分の犯した行為に、自分で責任を取ることだったのでしょうか? いや、そうではないと思うのです。主イエスが本当に求めておられたのは、「悔い改め」であったのではないでしょうか。
 このことは、ユダと同じく使徒であったペトロと対比させると、より鮮明になります。ペトロの犯した行為とは、まずゲッセマネの園で主イエスが逮捕されたとき、主イエスを見捨てて逃げたことでした。しかしそれでも、ペトロは主イエスを追いかけ、裁判が行われる邸宅までやってきました。そこで、ペトロは決定的な罪を犯しました。それは主イエスを3度「知らない」と言ったことでした。私たちが今開けている聖書の1ページ前、26章73節からをお読みします。「しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。『確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。』そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『そんな人は知らない』と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(マタイ26‬:‭73‬-‭75‬)‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 ユダが自殺したのに対して、ペトロは「外に出て、激しく泣いた」だけでした。子供のように、ただ泣いただけです。自分の罪を償う行動、自分の犯した行為に、自分で責任を取る行動は何もしていないのです。
 私たちの日常的な感覚からすると、もしかするとユダの方が立派な人物に見えるかもしれません。ユダが、結果として自殺を選んだのは肯定できませんが、自分の犯した行為に、自分で責任を取る行動をしようとし、主イエスと引き換えに得た銀貨30枚も手放しています。ユダの方がよっぽど大人であるかもしれません。
 しかし、ユダとペトロには決定的な違いがあります。それはペトロが、主イエスの言葉を思い出したからこそ、主の御言葉に立ち帰ったからこそ、自分の罪に気が付き、泣いたということです。75節に「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。」とある通りです。つまり、ペトロの裁き主は、主イエスであったのです。それに対し、ユダの裁き主はユダ自身でありました。
 ペトロの裁き主は主イエスであった、ということは、ペトロが自分の罪に気が付いたのち、ただ泣いたという行為にもよく表れています。昨年、私が神学校日礼拝で説教をさせていただいたとき、「ルカによる福音書」ではありましたが、このペトロの箇所を選びました。しかし実を申しますと、そのときの私にはペトロが泣いた理由が分かりませんでした。ですから、去年はここには触れないでおきました。しかし、この説教の準備をしていて、ペトロが泣いた理由が見えてきました。それは、ペトロは自分の罪を自分ではどうしようもない、自分では裁くことも、赦すこともできないと、思い出した主イエスの言葉で分かったからです。人間が泣くのは、もう自分ではその現状を変えることができない、ということに気が付いたときだと思います。自分ではその現状をもうどうすることもできない。そういうときに人は泣くのだと思います。例えば、お葬式や卒業式などがそうです。ペトロも、自分の罪を自分ではどうしようもない、自分では裁くことも、赦すこともできないと、思い出した主イエスの言葉で分かったからこそ、ただ泣くしかなかったのです。
 ペトロが主イエスの言葉を思い出し、自分の罪に気が付き、泣いたというのを、別の言葉で言い換えると、ペトロは「悔い改めた」のです。なぜなら、ペトロは、罪の現実から逃れず、主のもとに立ち帰ったからです。それに対して、ユダは「後悔」したのでした。これがこの2人の決定的な違いであったのです。同じ罪人であるにも関わらず、ペトロは初代教会の中心的存在となり、ローマ・カトリックによれば初代教皇にまで成りました。しかし一方で、ユダは自殺をして、今日まで「裏切り者」というレッテルを貼られています。この2人の違いは、「悔い改めた」のか「後悔した」か、つまり、「主に立ち帰った」のか「自分の犯した行為に、自分で責任を取った」のか、であったのです。どちらが主の御旨に叶うものであったかは、2人のその後を見れば明らかでしょう。主が求めておられたのは、悔い改め、ただ泣きながら、主のもとへと立ち帰ることであったのです。

 私たちも罪人です。私たちも、ユダのように主イエスを十字架へと引き渡し、ペトロのように主イエスを「知らない」と言ってしまう存在です。しかし、そのようなとき、主なる神が私たちに求めておられることは、後悔し、自分の罪に自分で責任を取ることではありません。そうではなく、悔い改めることなのです。泣きながら、主のもとへと立ち帰ることなのです。
 それは、具体的には、礼拝へと招かれるということです。礼拝において、私たちは自分たちの罪を告白します。先程引用しました教団信仰告白で「我ら罪人」とはっきりあった通りです。しかし、礼拝では、私たちの救いの物語が語られます。我ら罪人を救うために、御子はこの世へと遣わされ、十字架の死と復活という贖罪の御業、つまり私たちに罪の赦しを得させ、神の国に相応しい者へと創り変えてくださり、神の国へと招いてくださるのです。この福音の物語が、この希望の物語が語られるのです。
 ということは、今朝私たちは、悔い改めへと招かれたのです。今、私たちがしていることこそ、悔い改めなのです。今、私たちは主のもとへと立ち帰ってきたのです。気が付かないうちに、私たちは「後悔」ではなく、「悔い改め」を選んだのです。知らず知らずのうちに、聖霊の導きによって、私たちは、ユダではなく、ペトロであるのです。
 罪を犯した罪人が、悔い改め、ただ泣きながら、主のもとへと立ち帰り、礼拝へと招かれ、神の国に相応しい者へと創り変えられるのです。私たちは今、その経験をしているのです。
 たった少しばかり、自分でも気が付けないほどであるかもしれません。しかし確かに、私たちはこの礼拝の後、変化がもたらされるのです。その小さい変化が積み重なったとき、私たちは洗礼へと導かれるのです。そして、洗礼を受けたキリスト者は、終末に、神の国へと招かれます。洗礼を受けたキリスト者は必ず、この地上での命を終えたのち、終末において、神の国で再会します。神の国では、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もありません。私たちは、キリストによって、もはや自分の罪に苦しむことがなく、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、神と隣人とを愛し、仕えるようになるのです。誰しもが、礼拝で悔い改めたからです。洗礼を受け、御子イエス・キリストによって、神の国に相応しい者へと創り変えられたからです。
 私たちはここへと希望を持って、日々歩んで参りたい、そして1人でも多くの方が洗礼へと導かれるように、祈らなければならない、と思うのです。

父と子と聖霊の御名によって アーメン
日付2023-11-16
号数 第 258 号 掲載
メッセンジャー内田 幸四郎 神学生

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2022
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題名 あなたの庭で過ごす   聖書 詩編84編 1~13節   2022年01月27日  中村 清 牧師 
2021
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題名 見よ、神の業を   聖書 創世記 25章1節~6節   2021年10月31日  中村 清 牧師 
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題名 平和をつくる者   聖書 マタイによる福音書 5章9節   2021年08月30日  中村 清 牧師 
題名 誰の僕なのか   聖書 ルカによる福音書 17章7-10節   2021年07月18日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 聖霊降臨 異なる言葉で   聖書 使徒言行録 2章1~13節   2021年06月14日  中村 清 牧師 
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題名 わたしのもとに来なさい   聖書 創世記19章12~22節、マタイによる福音書11章28~30節   2021年03月14日  中村 清 牧師 
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2020
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題名 奨励『愛には力がある』   聖書 雅歌8章6~7節、ルカによる福音書10章23~37節、テサロニケの信徒への手紙一5章16~19節   2020年11月08日  東京神学大学一年生 内田幸四郎神学生 
題名 目を上げて見なさい   聖書 創世記 13章 8節~18節   2020年10月11日  中村 清 牧師 
題名 神の喜び   聖書 ルカによる福音書 15章1~10節   2020年09月13日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 平和の福音を告げよ   聖書 エフェソの信徒への手紙6章10~18節   2020年08月10日  中村 清 牧師 
題名 神の評価と自己評価   聖書 ルカによる福音書 14章15節~24節   2020年07月13日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 信仰の戦いを戦い抜け   聖書 テモテへの手紙(一)6章 11節~16節   2020年06月15日  中村 清 牧師 
題名 健康と生命を守る神   聖書 ルカによる福音書 14章1節~6節   2020年05月16日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 「神様はあなたを呼ばれる」   聖書 創世記11章27節~32節、12章1節~7節   2020年04月19日  内田 光生伝道師(田名部教会) 
題名 「私は主を見ました」   聖書 ヨハネによる福音書 20章18節   2020年04月19日  中村 清牧師 
題名 祝福の基となる   聖書 創世記47章1~10節   2020年04月04日  中村 清 牧師 
題名 栄光を現す時   聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~5節   2020年04月04日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 真の救い主イエス   聖書 ルカによる福音書 13章31節~35節   2020年03月07日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 真理はあなたたちを自由にする   聖書 ヨハネによる福音書 8章31節~38節   2020年02月11日  中村 清 牧師 
題名 神の恵みの秘密   聖書 マタイによる福音書 2章16節~18節   2020年01月12日  鳴坂 明人 牧師 
2019
題名 神のみわざを思い巡らす   聖書 ルカによる福音書 1章57~80節   2019年12月09日  中村 清 牧師 
題名 開かれた人生   聖書 マルコによる福音書 7章31節~37節   2019年11月09日  中村 清 牧師 
題名 神の豊かな憐れみと恵み   聖書 ルカによる福音書 13章10節~17節   2019年10月19日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 幸いな人生   聖書 創世記47章27節~31節   2019年09月08日  中村 清 牧師 
題名 神のとりなし   聖書 ルカによる福音書 13章 6節~9節   2019年08月11日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 いらだたず、恨みを抱かない   聖書 創世記41章 50節~52節   2019年07月20日  中村 清 牧師 
題名 今、やるべきこと   聖書 ルカによる福音書 12章 54節~59節   2019年06月08日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 目を上げる   聖書 創世記39章 1節~10節   2019年05月12日  中村 清先生 
題名 わたしに従いなさい   聖書 ルカによる福音書 5章27節~32節   2019年04月24日  内田 光生 神学生 
題名 ここから離れることなく(「いそご 」 113号)   聖書 ルツ記2章4節~13節   2019年04月13日  中村 清牧師 
題名 信仰の遺産(「いそご 113号」)   聖書 ルカによる福音書 12章13節~21節   2019年04月13日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 備えある信仰   聖書 ルカによる福音書 12章35節~40節   2019年03月16日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 神の国は近づいた   聖書 マルコによる福音書 2章13節~17節   2019年02月12日  中村 清 牧師 
題名 クリスマスの奇跡   聖書 マタイによる福音書 1章 18節~25節   2019年01月16日  鳴坂 明人 副牧師 
2018
題名 教会の発展と成長   聖書 使徒言行録9章26節~31節   2018年12月10日  中村 清 牧師 
題名 死は終わりでもなく、始まりでもない   聖書 コリントの信徒への手紙1 15章35節~49節   2018年11月15日  内田 光生 神学生 
題名 世界宣教 ~ひとりの人から~   聖書 使徒言行録 16章11節~15節   2018年10月15日  中村 清 牧師 
題名 主イエスの仲間として生きる   聖書 ルカによる福音書 12章8~12節   2018年09月18日  鳴坂 明人牧師 
題名 落穂拾い   聖書 ルツ記2章 1節~3節   2018年08月16日  中村 清 牧師 
題名 神の知識と人の知識   聖書 ルカによる福音書 11章45~54節   2018年07月07日  鳴坂 明人 牧師 
題名 神のいつくしみを聞く   聖書 ルツ記1章 1節~6節   2018年06月13日  中村 清 牧師 
題名 自分の内側と外側   聖書 ルカによる福音書 11章37~41節   2018年05月13日  鳴坂 明人牧師 
題名 収穫は多いが   聖書 マタイによる福音書 9章35~38節   2018年04月21日  中村 清牧師 
題名 澄み切った目と信仰   聖書 ルカによる福音書11章33~36節   2018年04月21日  鳴坂 明人副牧師 
題名 八日目の顕現   聖書 ヨハネによる福音書 20章19節~29節   2018年04月21日  中村 清牧師 
題名 信じる者は私の業を行う   聖書 ヨハネによる福音書 14章11~15節   2018年03月10日  中村 清牧師 
題名 ヨナとソロモンに優るもの   聖書 ルカによる福音書11章29節~32節   2018年02月10日  鳴坂 明人副牧師 
題名 この種のものは   聖書 マルコによる福音書 9章29節   2018年01月13日  中村 清牧師 
2017
題名 救いの完成   聖書 マタイによる福音書 1章1節~17節   2017年12月10日  中村 清牧師 
題名 聖書のみ 信仰のみ   聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2章16節   2017年11月11日  内田 光生神学生 
題名 聖霊と悪霊   聖書 ルカによる福音書 11章14~23節   2017年10月07日  鳴坂 明人副牧師 
題名 石を取りのけなさい   聖書 ヨハネによる福音書 11章38節~44節   2017年09月09日  中村 清牧師 
題名 祈りを聞いて下さる神   聖書 ルカによる福音書11章5節~8節   2017年08月12日  鳴坂 明人副牧師 
題名 主イエスのリトリート   聖書 ヨハネによる福音書 10章40節~42節   2017年07月22日  中村 清 牧師 
題名 祈ることを教えてください   聖書 ルカによる福音書 11章1~2節   2017年06月18日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 告白と礼拝   聖書 ヨハネによる福音書 9章35~41節   2017年05月13日  中村 清牧師 
題名 主の聖餐   聖書 コリントの信徒への手紙一 11章23~26節   2017年04月16日  内田 光生 神学生 
題名 主がわたしにしてくださったこと   聖書 ヨハネによる福音書 9章1~11節   2017年04月16日  中村 清 牧師 
題名 天国の名簿   聖書 ルカによる福音書 10章17~20節   2017年04月16日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 知るべきこと   聖書 ルカによる福音書 10章21~24節   2017年03月14日  鳴坂 明人副牧師 
題名 他では聞けない話   聖書 ヨハネによる福音書 7章40節~53節   2017年02月11日  中村 清牧師 
題名 主のはしための信仰   聖書 ルカによる福音書1章26~39節   2017年01月14日  鳴坂 明人副牧師 
2016
題名 待つこと   聖書 マタイによる福音書 24章45~51節   2016年12月10日  中村 清牧師 
題名 聖なる者とされている   聖書 コリントの信徒への手紙一 6章1~11節   2016年11月12日  内田 光生神学生 
題名 永遠の命のために働きなさい   聖書 ヨハネによる福音書6章22~30節   2016年10月11日  中村 清 牧師 
題名 イエスを歓迎する   聖書 ルカによる福音書 9章51節~56節   2016年09月11日  鳴坂 明人副牧師 
題名 われに来よ   聖書 ヨハネによる福音書5章31~40節   2016年08月18日  中村 清 牧師 
題名 最も偉い者とは   聖書 ルカによる福音書 9章43節~48節   2016年07月16日  鳴坂 明人副牧師 
題名 つぶさに見よ   聖書 ヨハネによる福音書 4章31~38節   2016年06月11日  中村 清 牧師 
題名 イエスの十字架と栄光   聖書 ルカによる福音書 9章28節~36節   2016年05月07日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 イエスとは誰か   聖書 ルカによる福音書 9章18節~20節   2016年04月20日  鳴坂 明人副牧師 
題名 十字架につけられる前のイエス様   聖書 マタイによる福音書 27章27節~31節   2016年04月19日  内田 光生神学生 
題名 新たな命が開かれる   聖書 マルコによる福音書 7章31~37節、イザヤ書35章3~6節   2016年04月19日  中村 清 牧師 
題名 僕となられた神   聖書 ヨハネによる福音書 13章10節~17節   2016年03月13日  中村 清 牧師 
題名 溢れるばかりの恵み   聖書 ルカによる福音書 9章 10-17節   2016年02月13日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 新しい年の歩み  ~エリコの城壁~   聖書 ヨシュア記6章   2016年01月16日  中村 清 牧師 
2015
題名 イエスに会ってみたい   聖書 ルカによる福音書 9章 7-9節   2015年12月12日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 イエス様は、死に勝利された   聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50~58節   2015年11月08日  内田光生 神学生 
題名 あなたがたの光を輝かせなさい   聖書 マタイによる福音書 5章 13-16節   2015年10月10日  中村 清 牧師 
題名 信仰と救い   聖書 ルカによる福音書8章40~48節   2015年09月13日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 主にあって堅く立つ   聖書 フィリピの信徒への手紙4章1~4節   2015年08月08日  中村 清牧師 
題名 悪霊からの解放   聖書 ルカによる福音書8章26~33節   2015年07月11日  鳴坂 明人副牧師 
題名 イエスという神   聖書 ルカによる福音書8章22~25節   2015年06月13日  鳴坂 明人副牧師 
題名 命をかけた救い   聖書 フィリピの信徒への手紙2章17~30節   2015年05月10日  中村 清牧師 
題名 神の言葉を聞いて行う者   聖書 ルカによる福音書 8章19節~21節   2015年04月26日  鳴坂 明人牧師 
題名 不平や理屈を言わず   聖書 フィリピの信徒への手紙2章12~18節   2015年04月19日  中村 清牧師 
題名 あなたは何と答えるか   聖書 マタイによる福音書26章57~68節   2015年03月08日  中村 清牧師 
題名 われらの祈り   聖書 ダニエル書9章1~5節   2015年02月09日  中村 清 牧師 
題名 激動の世界の中で   聖書 ダニエル書7章1~7節   2015年01月10日  中村 清牧師 
2014
題名 心を一つにして   聖書 使徒言行録2章42節~47節   2014年12月14日  中村 清牧師 
題名 あなた方の手で渡しなさい   聖書 マタイ 14章13~21節   2014年11月16日  中村 清 牧師 
題名 死は終わりではない   聖書 ヨハネによる福音書 10章39~42節   2014年11月02日  中村 清 牧師 
題名 世界の救い主   聖書 ヨハネによる福音書4章39~42節    2014年10月12日  中村 清 牧師 
題名 偉大な者   聖書 ルカによる福音書7章24~30節   2014年09月14日  鳴坂 明人 副牧師 
題名 感謝して生きる   聖書 フィリピの信徒への手紙1章3~7節   2014年08月09日  中村 清 牧師 
題名 それゆえ、わたしは   聖書  ダニエル書4章31~34節   2014年07月13日  中村 清 牧師 
題名 老人は夢を見、若者は幻を見る   聖書  使徒言行録2章14~16節   2014年06月08日  中村 清 牧師 
題名 この三つの愛に生きる   聖書 マタイによる福音書2章36~40節   2014年05月11日  中村 清 牧師 
題名 不安の正体   聖書 ダニエル書2章31~45節   2014年04月13日   中村 清 牧師 
題名 まさかわたしのことでは   聖書 マルコによる福音14章12~22節   2014年03月30日  中村 清  牧師 
題名 キリストに根を下ろす   聖書 ダニエル書二章   2014年03月09日  中村 清 牧師 
題名 善き力に囲まれて   聖書 ダニエル書一章   2014年02月09日  中村 清 牧師 
題名 求めよ、さらば与えられん   聖書 マタイ福音書7章7~12節   2014年01月12日  中村 清  牧師 
2013
題名 闇を照らす光   聖書 ルカ福音書1章46~56節   2013年12月08日  鳴坂 明人 副牧師